2016年12月
告別式は沢山の友人が来ていた。12月のくそ忙しい時期だった。
好きだったという曲がリピートで流れていた。「粉雪」という曲だった。
ここでJPOPかと心の中で突っ込んでいた。確かにいい曲だけど。
喪主のお父さんの最後の挨拶が気の毒でしょうがなかった。
何故、こんな結果となったのか。
考えてもしょうがないから考えるのはやめた。
帰りは男子寮の友人たちと飯を食いに行ったのか。当時の話で盛り上がった。
みんなでサトシの話ばかりだった。
それから、大分、時間が経った。
俺は結婚し子供が出来、新しい家族ができた。他の友人たちも似たようなもので。
やっとこの時期に時間が取れたので初めて友人と墓参りに行った。
サトシの実家は想像してたものと違い豪邸だった。墓も大分、立派だった。
立派すぎてあっけにとられてしまっていた。
実家ではお母さんと妹さんがほんと、歓迎してくれた。ありがとうございます。
お約束かのように昔の写真を見せてくれた。
大学時代の写真がたくさんあった。みんなで撮った写真も多かった。
みなさんそうなんだろうけど、当時の写真を久々にみるとみんな、恥ずかしいくらい調子にのりまくっていた。
7年ぶりに会うサトシは、当たり前だが記憶と変わらぬ姿でそこにいた。
永遠に若いなと思った。こっちはもう一回りも年上だ。
思い返せば何かできたわけでもなく、気づけたことも一つもない。
過ぎたことに何かできたのではとか考えてもどうしようもない。
ただ、我々にとって大事な友人であることにはこれからも一生変わらない。
一生変わらないというのは、ずるいな。
だから、また来年も来ようと思った。それまで、ゆっくりと。
先週の土曜日、7年越しの念願が叶い遠路はるばる友人に会いに行くことができた。
もう一人と共に小旅行気分で茨木まで。
7年越しの再会を果たした友人の名前はサトシという。俺が東京に来た日の夜に出会った。
当時はお互いまだ、18で、俺はアフロでラッパーになろうとしてて、韻を踏むことが優先順位高く考えていた子供だった。
サトシは同じ寮で、隣の部屋で色白で細くベースを弾くことが好きなふりをしていた。
お互い東京にビビりながら初めての一人暮らしや初めての大学生活に不安と希望を行ったり来たりさせながら調子に乗り遅れまいとする子供だった。隣の部屋ということもあってか、慣れない一人暮らしの寂しさもあったのか、俺とサトシはお互いすぐにうちとけ、夜な夜な酔っ払い、当時、最高に流行り始めたウイニングイレブン4を朝までやった後、朝マックに行ってから寝るという日々を繰り返していた。
他にも色んな奴がいたが男子寮は楽しかった。ある意味最高である意味最悪だったが、一つ屋根の下、共に生活した時間は忘れられない時間だった。そしてFREEを感じまくっていた。
はしゃぎすぎた為か案の定お互い1年で寮を追い出され一人暮らしを始めたが2年生以降もよく遊んだ。
俺がラッパーとしての経験を順調に積み始めたころ、サトシは友人の影響からかハウスDJになっていた。そしてあまりよく知らないが途中から社交舞踏研究会に入ったとか入ってないとか。ベースはどこに行ったのかと思っていたがそれは聞かなかった。
お互いのコミュニティをうまく作りながらも、お互いの近況や悩みはよく相談しあってた。大体俺が相談してた気がする。
よくある大学でよくいる学生が調子に乗っていた感じだったなと思う。そして卒業を迎えた。
社会人になってからもお互い、たまに連絡をしてたまに飲みに行った。
お互いの苦労話や会社の話を飲み屋でしてた。
学生時代からそうだったが、サトシはのめりこむと突っ走るタイプでその頃はダーツにのめりこんでいた。
たまにだが、一緒にダーツバーに行った。
卒業してから5年が過ぎ、6年が過ぎと時間がたったころ俺は今の奥さんと出会い同棲を始めた。久しぶりにサトシから連絡があった。
体調を崩し、会社を辞めることになったという。辞めた後は実家にしばらく帰ることにしたから久しぶりに飲もうとのこと。
久しぶりに会ったサトシは思ったより元気そうで、誰を意識したのか髭なんか伸ばしてた。色白で細いのは変わらなかった。
とりとめのない昔話をたくさんした。ほとんどが寮の時の話だった気がする。腹を抱えて笑った。
その後うちに泊まって学生の時のように結構飲んだ。覚えてないが結構まじめに語った気もする。
次の日、サトシは実家に帰って行った。茨木に。
何か月かしてからサトシに電話した。共通の友達が実家に遊びに行ってたらしい。仕事はまだしてないそうだが思ったより元気そうで安心した。
また電話してくれと言っていた。
さらにその1か月後、共通の友達から久しぶりにメールが来た。
ちょうど今くらいの季節だった。結婚の報告かな?という気持ちでメールを確認した気がする。
メールの内容はサトシが自殺したという内容だった。。。②へ続く。。。